2009年11月13日金曜日

【報告】メディアラボ[映像編]1日目

メディアラボ映像編の第一回目は、映像作家の鷺山啓輔さんのワークショップだった。鷺山さんの作品には水のイメージが多く登場するが、偶然だろうか、外は激しく雨が降っていた。

まずは鷺山さんの作品を紹介していただいた。映像作品なのだが、最初はスライドで説明を加えながら。モチーフや、展示の仕方、展示に使用する素材、映像に使用する素材、そしてどんな作品に影響を受けたかなど、かなり詳しく説明して下さった。非常に淡々と語られるため、思わず軽く流してしまいそうになるが、ひとつひとつが作品作りにはとても重要な事柄ばかりだった。スライドだけで作品を見ていると、やはり映像が観たくなる。次にスライドの中からいくつか映像をピックアップしていただいて、それらを鑑賞した。
窓の外がどんどん水の中へ沈んで行くという不思議な感覚を生む作品『浮き島』、湖面すれすれで撮影された湖の映像、まるで青い壁画に描かれたかのようなアニメーション『B.V』、そして一人の青年の心の中を探検するような作品『B.V second season』。最後のシーンの氷筍の空間がとても幻想的だった。

後半は、鷺山さんが影響を受けた作家の映像をいくつかを紹介していただき、部分的に鑑賞した。フィンランドの女性映像作家の『ラブイズトレジャー』、シュワンクマイエルの『棺の家』、ドキュメンタリーの作り方として観てもとても参考になるという『沈黙の世界』、伊藤高志の実験映像『THUNDER』。最後は合唱曲「チコタン」をもとに作られた岡本忠成のアニメーション作品でしめくくった。

現代美術の作品にはたくさんの謎が詰まっている。存在そのものが謎かもしれないし、ある特定の色を使うのが謎かもしれないし、モチーフが謎かもしれない。作品鑑賞というのは、その謎を解くのが楽しい。謎を解くのが楽しいとは言っても、謎は決して解けることはない。言葉で明快に表現してしまったら、その謎は死んで、何か別のものになるのだろう。朝になったら見えなくなってしまう、星の光のように。一般に、その難解さを腹立たしく思われたり、敬遠されたりしているというのが現代美術の側面と思う。

今回のワークショップは「他人の作品を鑑賞する」ということが主なテーマだったと思うが、作品鑑賞の体験が深ければ深いほど、自分の作品に深みが増してくるのではないだろうか。ワークショップは全体を通じてとても静かに進行し、参加者からの質問なども特に出なかった。これはとてももったいないことだ。私たちはその気になれば、「この作品のこの場面は、何を意味しているんですか?」と尋ねてヒントを得ることができたかもしれない。相手の作品に対する質問は、その作品に込められた謎を解くヒントを得られることがあるだけではなく、それが自分の創作のヒントとなることも多い。

作品を観ることはコミュニケーションだ。作品という相手に対して興味を持ち、問いかける。作品を感じることによって、感じている自分を感じることができる。自分があって初めて、作品に己の思いを封じ込めようという必然が生じて来る。

そしてこのワークショップでは作家自身が自分の作品を紹介してくれていた。自分がこれから作品を作ろうという時、現役の作家にどのようにその作品が作られたのかを詳しく聞くことができるというのは、とても貴重な機会だと思う。それは少しの間、作家の創作の旅路にご一緒させてもらえるような、特別な体験だと思う。

ワークショップの最後に、作品の中に何度も登場した「水」のイメージについて、鷺山さんにお聞きした。ご本人でも無意識だったらしく、「水」に対する謎はその場では回答を得られなかった。なぜ水が登場するのかはわからないが、水は常に振動したり波立ったり、動きのあるものなので、映像の対象としてはおもしろいのだろう、というような事をおっしゃって、私もその時はそれで納得したのだが、雨の中帰る途中、プールや海の中へ潜った時の音の感じ、あのふっと音がやわらかくなり、周りの物事全てが遠くなる感じを思い出した。あのなんとなく守られているような感じが心地よくて、よく会社などでつらいことがあった時、帰りの電車の中で自分が深く水の中に潜っていると想像していたことがある。なんとなく傷が癒えるような、それでも完全に癒えたわけではないので、胸の奥に悲しみをたたえているような、そんな感じを鷺山さんの作品に重ね合わせると、また新しい楽しみ方ができそうな気がした。私の個人的な、ごはんにマヨネーズをかけて食べるといったような、ほんとうに個人的な嗜好だと思うが。

映像のワークショップはあと2回。参加者が作品を作る機会もあるそうで、とても楽しみだ。

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