第二日目の講義は、1950年代のアメリカの抽象主義、フランスのアンフォルメルから始まり、ネオダダ、ポップアート、ミニマルアート、そして1960年代の日本の「もの派」などを俯瞰し、コンセプチュアルアートへ、という流れで行われました。
抽象表現主義、アンフォルメル、カラーフィールド絵画
まず「抽象の黄昏」と題して、上記3つのカテゴリについてのお話でした。第一日目にお話いただいた「キュビスム」を第一次世界大戦を挟んで受け継ぐ形で発展していったそうです。大戦はヨーロッパを舞台に行われ、戦後のヨーロッパは、ホロコースト、対独協力など、精神の荒廃が進んでいました。
そんな中、美術の中心は戦前のパリからアメリカへと移って行ったそうです。アメリカの美術の発展には、ハロルド・ローゼンバーグ(「アメリカのアクションペインターたち」)やクレメント・グリーンバーグ(「モダニズム絵画」1961年)などの批評家が思想的な流れを作る重要な役割を果たしました。
抽象表現主義は、1940〜1950年代、アメリカのニューヨークを中心に発展しました。1920〜1930年代のキュビストは、社会の比較的裕福な人々で構成されていたのですが、抽象表現主義のアーティストは、移民出身など苦しい生活の人々もおり、また1930年代はアメリカの恐慌の時代でもあり、思想的に社会的な傾倒もあったそうです。
作家としてはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、彫刻家のデヴィッド・スミスを中心に進みました。
特にポロックの『熱の中の目』、『五尋の深み(Full Fathom Five)』、『第1A番』『秋のリズム』『ラベンダー・ミスト』等で、「絵画の依って立つ条件」が模索されている様をご説明いただきました。
ポロックの作品では段々と全体の画面の構成上のヒエラルキーがなくなって行き、(そういったものを「オールオーバーの絵画」と言うそうですが)平面的になり、そして巨大になっていったそうです。
それは次第に「壁紙」と同じような効果を持つ事となり、ファッション雑誌の『VOGUE』の表紙の背景に使われたこともあったそうです。
そしてあまり一般に人気ではなかったそうですが非常に作家に支持を得ていたというデ・クーニングについて。
自由気ままに描かれたアクションペインティングの様でありながら、その構成は実に緻密に組み立てられており、大変長い時間をかけて制作されたものであるということを、製作中のデ・クーニングのアトリエの写真や作品をスクリーンで観ながらご説明いただきました。
ジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグに影響を与えたという例をスクリーンで観ながらのご説明は大変興味深いものでした。
そしてマーク・ロスコ。「瞑想する絵画」とも言われるマーク・ロスコの作品は、鑑賞者をその場にゆったりと留まらせる不思議な力を持っているそうです。
『第25番 黄色の上の赤、灰、白』を例に取り、縦長のフォーマットでほぼ人間の身長くらいの高さ、そして頭、胴体、足を思わせる3つに分割された構成などから、絵画を人間のように捉えていたのでは、というお話でした。
そして鑑賞者の存在を絵画制作の最初から想定して制作されるようになったという文脈で『シーグラム壁画』が挙げられます。これはレストラン「フォー・シーズンズ」の壁画として制作されたそうですが、レストランに飾られることはなかったとか。マーク・ロスコは、60年代から「場を作りたい」という考えにシフトしていったそうです。晩年には『ロスコ・チャペル』という無派閥の協会も建てています。
『シーグラム壁画』は、川村記念美術館で現在も鑑賞することが出来ます。
そしてバーネット・ニューマンに話は移ります。
バーネット・ニューマンは元々批評家で、生活のために高校で美術の教師をしていたそうです。また、労働組合の活動や政治にも関心が高く、ニューヨークの市長選にも出馬したことがあったそうです。キューレーターとしても活動しており、関心のあったネイティブアメリカンの展覧会なども企画したとか。大変アクティブな人物であったようです。そのあと、画家としてデビューしたそうです。
作品としては『創世記—断絶』『モーメント』を経て、『ワンメント1』を1948年に発表し、自ら「これが自分の最初の絵画」と言っていたそうです。赤い地にオレンジの縦線が入っているシンプルな構成で、「図と地」という、知覚の原初的な経験を再現しており、絵画や知覚の始まりを表現しているとか。
このように、作品の中で絵画的なものの始まり、といったものを表現することが多かったそうです。
そして話は絵画から彫刻へ。デヴィッド・スミスを詳しく追いながら彫刻における表現の変遷を見て行きました。
デヴィッド・スミスは1930年代から「構成彫刻」を作ったそうです。『アグリコラの顔』、『室内』と言った絵画的な彫刻、そして代表作の『キューバイXIII』を観て行きました。鉄の素材を使用していながら、とても軽く見える彫刻を作ったりするなど、素材の質感を感じさせない作風があったことから、「蜃気楼のような彫刻」と言われたそうです。
最初に名前を挙げた批評家のクレメント・グリーンバーグが「モダニズム絵画」というテキストの中で、抽象表現主義とは、絵画を絵画たらしめているものは何かということを問うものだった、と言っているそうです。
芸術の上でも分業化が進んでいるので、画家は画家にしか出来ない事をすべきであり、文学や演劇といった他の芸術で表現できるものを絵画からすべて取り払った時に絵画に残ったものを表現するなら、それは、平面である、ということになったそうです。
この考えは、1950〜1960年代には大変な影響力があったそうです。
デヴィッド・スミスの彫刻も、平面的で、まさにグリーンバーグの思想を反映していると言われているそうです。
アンフォルメル
次にフランスで発展したアンフォルメルについてお話は移って行きました。アンフォルメルは、戦争の影響が強く出た「苦悩する絵画」だそうです。
ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、エルズワース・ケリー、デュシャンなどを挙げながら、戦争を引き起こしてしまったそれまでの知性や理性に対する不信感から、段々と戦前の知性や文化が築き上げてきた芸術の価値や歴史に作家の感性が背を向けて行く様になった様子を追いました。
ネオ・アヴァンギャルド(ネオダダ)
1950年代の作家たちがどのような思想的な流れの中で制作をしていったのかを追いました。当時、思想家のチャールズ・サンダーズ・パースの記号に関する概念が非常な影響力を持っており、それまで記号の主な要素であった「イコン」「シンボル」といったものが絵画の中でも表現されていたのですが、そうではなくて記号の「インデックス」としての意味を絵画作品の中で表現するようになったということでした。
ラウシェンバーグの『自動車のタイヤによるペイント』(1953年)はまさにその好例で、自動車のタイヤの痕跡を魚拓のように紙に写し取った作品です。
そしてジャスパー・ジョーンズの『旗』『的』『数字』『地図』といった作品では、グリーンバーグのモダニズム絵画の主張であった「平面的なるもの」が地図や的といった大衆文化の産物として物理的に入り込んでいる作品を制作しており、その理論がもはや成り立たなくなっていたのではということでした。
そして話はポップアート、ミニマルアート、戦後の日本の「もの派」の話へと移って行き、三日目に続くコンセプチュアル・アートをジョゼフ・コスースを例にとりご説明いただいて、二日目は終了となりました。
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